メトライブラリ ここではメトの活動で得られた研究成果などをご覧いただけます。現時点では、Mahler「交響曲第10番」の解説、Berg「ピアノソナタ」、Debussy「交響組曲 春」、Ravel「優雅で感傷的なワルツ」の譜面の間違いなどを掲載しています。これらの文章の著作権は、メトの専属アレンジャーささざきゆづるが保有していますので無断転載はご遠慮下さい。ご意見、御感想などは、ささざきゆづるまでご連絡下さい。(2002.6.18)
◆特別解説 Mahler交響曲第10番の音楽に迫る
第1部 Mahlerの書法 「ソナタ形式を崩壊させた作曲家」 改めて言うまでもなく、Mahlerの音楽は独特である。ここではMahlerをより理解するための独自な手法をランダムに挙げてみたい。そのことを通じて浮かび上がってくるのは、Beethovenに代表されるソナタ形式の理念「最後には必ず勝利が来る」に対する痛烈なアンチテーゼであり、意図的な様式上の不統一である。そのことを念頭においてお読みいただきたい。 ●多楽章構成 Mahlerの交響曲には、ソナタの原則を破った5楽章以上の楽章構成が少なくない。4楽章の変形としての多楽章ではなく、そもそも逸脱してしまっているところが特徴である。
5楽章構成 第2交響曲、第5交響曲、第7交響曲、第10交響曲 ●ソナタへの反抗を示す楽章構成 多楽章というだけでなく、楽章構成が今までのソナタ形式を大きく逸脱している。いきなり第1楽章から葬送行進曲がはじまる第5交響曲は端的な例であろう。 第10交響曲においても、2つ存在するスケルツォ、はじめと終わりに置かれた緩徐楽章など、斬新な構成になっている(ちなみに、「プルガトリオ」を中心とするシンメトリーな構成なのである)。 ●ソナタ形式の原理では統一しきれない肥大化した交響曲 Mahlerの場合、1時間でおさまる交響曲の方が珍しい。そもそもこれだけ長いと、ソナタの伝統的形式原理では作品を統一的なものとしてまとめあげることはできない。Mahlerは、そのためにさまざまな形式原理を導入するのだが、この話はあまりに複雑で長大になってしまうので、ここでは割愛させていただく。 ●発展的調性 曲のはじまりと終わりで違う調性で結ぶやり方。すでに「さすらう若人の歌」第2曲「朝の野辺を歩けば」に見られる。交響曲の単独楽章では第1交響曲第4楽章(ヘ短調→ニ長調)がはじめて取り入れられた例。第5交響曲、第9交響曲の第1楽章と終楽章の調性のずれもこのカテゴリーで考えてよいと思う。 それまでのソナタにおいて作品の統一を支えていた調性的シンメトリー構造を破棄してしまったわけで、この意味は音楽史上において重要な位置を占める。 ●特殊楽器の多用 Mahlerの交響曲では、本来あるべきでない楽器が多用される。交響曲にトライアングルを入れるだけで(Beethoven第9交響曲)斬新だった時代もあるくらいだから、当時にしてみればきわめて画期的なことであっただろう。 特徴的な楽器編成は次の通り
第1交響曲 舞台裏のトランペット、立ち上がるホルン ●並列手法 互いに対立する雑多な様式を並列するというMahler独自の手法。Mahlerの楽曲が前触れもなくテンポが突然変化するのは、この手法の導入と密接な関係を持っている。第3交響曲第1楽章の主要主題をただ並べただけのような形式、さらにはそれまでの流れとは無関係に闖入した小太鼓に導かれる再現部などはその端的な例であろう。 第10交響曲第1楽章において、突然モノローグが音楽の流れを分断するように割って入ってくるのも、この手法である。 ●異質な要素の導入
Mahlerは本来交響曲にあるべきでない異質なものを大胆に導入していった。 その結果、聖なるものと俗なるものとが奇妙に同居することになる。 ●変形技法 Mahlerの場合、同じ旋律がそのまま戻ってくることは少ない。常に変形して出現させる。変形の際にさまざまな引用を組み込んで出現させることもあるので、その様相は実に複雑である。とくに第9交響曲第1楽章の第1主題がどんどん変形され、ヨハン・シュトラウスのワルツ「人生を楽しめ」に結び付いてしまうあたりは圧巻である。 第10交響曲第1楽章においても変形技法が徹底的に使われている。第1主題やモノローグが同じ音程で現われることなく、ときには他の主題をほのめかす音程を組み込みながら自己変形していくさまはとても興味深いものがある。 ●長調−短調 Mahlerを特徴づける和声感覚ではないかと思う。第2交響曲第1楽章最後の長調から短調へのむきだしになった交替、同様に第6交響曲における扱いはとても印象的である。これに限らず、「大地の歌」に頻出するような短調と長調を行ったり来たりする旋律などもこのカテゴリーに入るだろう。いずれも調性の崩壊を予兆させる手法である。 ●音色の交替 ある楽器がクレシェンドする間に別の楽器がデクレシェンドするなど、楽器の扱い方に大きな特徴が見られる。とくに第9交響曲第1楽章の通常のホルンとゲシュトプフトのホルンの交替は印象的である。 第10交響曲第1楽章においても、ホルンの音質交替効果を求めた箇所が101〜102小節にある。 ●本来現われるはずでない突然の無関係な主題の出現(パロディ的なコラール) 「早すぎた勝利」と評されるMahler独自の手法である。代表は第4交響曲第3楽章の突然のユートピア的世界の出現であろう。それまでの主題を展開して勝利がやってくるのではない、外の世界から闖入するのだ。 第10交響曲第1楽章においても、最後に現われる突然のコラールがある。
第2部 私小説的絶対音楽「第10交響曲」 グロピウスに魅かれたMahlerの妻アルマ。2人の関係が抜き差しならないものとなり、それを知って打撃を受けるMahler。第10番の交響曲はそれと時間的に並行する形で作曲されていった。事の顛末がそのまま音楽化されているともとれる第10番。しかしながら、この曲はそれを超えて普遍的な音楽的魅力の獲得に成功している(あるいは、するはずだった)。その魅力の裏にさまざまな音楽的背景が存在する。ここではその仕掛けに迫ってみたい。 ●告別三部作 「大地の歌」「第9」「第10」は告別3部作として構想されたらしい。「第10」はMahlerのアルマへの別れ。「大地の歌」はMahlerの親しい友人への別れ? 「第9」はMahlerのこの世への別れ? ●「西洋風彼岸」第9交響曲との共通性 「大地の歌」最後の「E−G−A」の音型が交響曲第9番冒頭のFis−A−Hと密接な関係にあることはよく指摘されることである。「第9交響曲は大地の歌の終わりから始まる」と評されている。 第10でも同じことが言えるのではないか。つまり、「第10は第9の第4楽章から始まる」ということである。第9第4楽章終結部の音のきわめて薄い部分(それまでの音楽にはなかった新しい書法である)と第10第1楽章終結部のなんと酷似していることだろう。 調性的に不安定で浮遊しており、この世のものとは思えないほどの浄化された美しさと諦めに満ちている。このこととMahlerの世界観はイコールである。 ●曲頭に奏されるヴィオラのモノローグについて 第1楽章の独自性を特徴づけているのが、このヴィオラのモノローグ。そもそも、調性感のない無伴奏の旋律というだけで特徴的である。このルーツはどこにあるのだろうか。明確に答えてくれる資料は今のところない。だが、おそらくWagnerの楽劇に何らかの影響を受けているのではないかと思われる。 まず、楽劇「ジークフリート」の第3幕第3場(最終場面である)の冒頭。ファースト・ヴァイオリンのパート・ソロで奏され、ゆるやかに上昇し、頂点を経てまたゆるやかに下降するアーチの形をとっているところは、第10交響曲と共通するものがある。ちなみにWagnerの場合、ほとんどの旋律に何かを指し示すライトモティーフの役割を担わせるのであるが、上昇旋律が「女性」、下降旋律が「炎」である。「女性」? もう一つ、Wagnerの楽劇「トリスタンとイゾルデ」第3幕に現れる無伴奏イングリッシュ・ホルンの独奏。これは、「悲しき牧笛」というライト・モチーフ名で呼ばれる。重傷を負ったトリスタンがイゾルデを待つが現れないという場面で奏され、このうえもない寂寥感を漂わせている。第10交響曲とのあいだには共通点がある。どちらも装飾音符の付いた音が1つだけあり、それが旋律を特徴づけているという点である。 さらに、第10交響曲の冒頭第3・4・5・6音の音程は「トリスタンとイゾルデ」の冒頭第1・2・3・4音の音程関係と一致する。のちに述べる「トリスタンとイゾルデ」の重要な示動動機「愛の死」との関連性も考え合わせると、単なる偶然なのだろうか。 最後に。どの本も触れてはいないが、第9交響曲第1楽章最後(423小節〜)のフルートの旋律と関係があるように思う。下降パターンがかなり似ている。第9番の該当箇所の表情記号「Schwebend」は「浮遊した」の意。なるほど、調性的にも浮遊している。 ●第1主題の大きな跳躍の源流を探る 原型は交響曲第6番第4楽章の挿入主題にあると思われる(初出は第6交響曲第4楽章141小節目のホルン)。その転回形が第10交響曲とほぼ一致する。おもしろいことに、第6・第10双方とも転回形が対等に扱われて活躍する(第6での初出は145小節目のヴィオラ)。 さて、この第6交響曲の第4楽章は「大いなる3回の運命の打撃、英雄は最後の一撃で倒れる」とMahlerが語ったとされている。アレグロで悲劇的かつ活力的に奏される第6に対して、諦感に満ちたアダージョで奏される第10。この対称からMahlerの晩年の世界観を読み取ることも可能だろう。そうすると第10の主題は「静かな終焉」を示すものなのだろうか。 もう一つ、Mahler自身の歌曲「子供の不思議な角笛」との関連もある。意外にこのことについて触れた書籍がないのだが、これはある意味決定的であると思う。詳細は『第3楽章と「子供の角笛」、「サロメ」との関連』のコーナーにて。 なお、この跳躍はBruckner交響曲第9番第3楽章アダージョ冒頭と関連があるという説もある。なるほど、トロンボーンやテノール・チューバなど低音金管楽器の使い方をみると、第10番アダージョのモデルになったのではと思わせるほどだ。 ●第1主題の扱いに画期的手法 第6と同様、主題の転回形が活躍するのだが、第10では再現部(第141小節)で転回形と同時に奏される。これは画期的な書法であり、新ウィーン楽派、とくにシェーンベルクに多大な影響を与えたことが知られている。 ●第2主題の前に出る「魔性の女」 Wagnerの舞台神聖劇「パルジファル」に出てくる「クリングゾル」の動機の引用だとされる。解説書では「魔性の女性」を暗示するものとされることが多い。 この「クリングゾル」は、第2幕に登場(動機は第1幕からクリングゾルや邪悪を示すものとして登場)する、魔法の城に住む魔法使い(男)である。クリングゾルは、この第2幕で美しい女性たちを操って男性を誘惑する。楽劇の中では「クリングゾル」そのものを表すほかに、「神聖なもの」に対する「邪悪なもの」を示す動機として使われている。
該当部分(2幕冒頭)の台詞。
そのあとクリングゾルは、クンドリに関して気になることを言う。 「ヘロディアス」は、ほかでもない、魔性の女「サロメ」の母である。 ●第1楽章第2主題 いうまでもなく、冒頭ヴィオラの旋律の変形にほかならない。 ●突然の変イ短調和音と引き延ばされるAの音 アダージョの中でもっとも強烈な印象を放ち、映画「マーラー」の中でも効果的に使用されたこの部分。多少詳しい解説書であれば、引き延ばされる「A」(トランペットによる「ラ」の音)は、マーラーの妻であるArmaの「A」であることが書いてあるだろう。前述したアルマとの不仲、マーラーにとって死にも等しいその衝撃を不協和音として表現し、Aの音でアルマを暗示する、という解釈が一般的だ。 変イ短調の和音に続き、金管のコラール。そして「魔性の女」の主題が挿入される。それからAの音。このA音が延ばされる前には、意識的にA音は避けられている。それだけに強烈に印象に残ることになる。 不協和音について。これは9音の違う音から構成される、Mahlerが書いたもっとも不協な和音である。低音が嬰ハ・嬰ト・ロ・ニ・嬰ホ、高音がイ短調の主和音。高音と低音それぞれはいちおう協和音であるが、その2つを同時に鳴らすことで不協和音とするところは後の12音主義の作曲家とは異なるところである。 この和音、もしかするとR.Straussの楽劇「サロメ」の最後に現れる強烈な分裂和音関係があるのかもしれない。「サロメ」での不協和音は楽劇の最後に出現し、低音がイ長調の主和音、高音が変ト長調の主和音からできている。サロメがヨナカーンの生首に接吻し、周囲の世界とは無関係に自己の世界で恍惚にひたっていることを示す「引き裂かれた和音」である。 さて、研究の結果、どこにも書かれていない新たな発見があった。この突然の転調部分とオーケストレーションまで似通った音響を、マーラーは以前書いているのだ。 カンタータ「嘆きの歌」。3部からなるこの初期作品の第2部と第3部に、この突然の短調和音はそれぞれ登場する。1度目はヘ長調の音楽のあとに変ホ短調の和音、2度目は嬰ト短調の音楽のあとにイ短調の和音である。ハープの分散和音が入るあたりもアダージョと酷似している。違っているのは、アダージョのフォルテシモに対し、「嘆きの歌」ではフォルテピアノであること。アダージョが全体としてピアノの音楽、「嘆きの歌」では全体がフォルテの音楽(とくに2回目は華やかな「結婚式の場」)であることから、その音楽の中で効果的に使うべくディナーミクを設定したのだろう。 さて、「嘆きの歌」ではどんな場面でこの「突然の短調和音」を使用しているかというと。兄に殺害された弟の骨を吟遊詩人が見つけ笛にしたところ、その笛が弟の心情を切々と歌い兄の殺害を告発するという物語の中、まさに笛を吹く直前に現れるのである。もしライトモティーフとして名前をつけるのであれば、「告発」ということになるだろうか。すると第10番では、「アルマへの告発」? 第10番の第5楽章で、この大胆な不協和音は再現する。ぜひお聴きになっていただきたい。第3楽章で出現し、第5楽章で展開された「サロメ」のテーマと一緒に再現するからだ(先述のように、マーラーは「サロメ」に関して、書かれた初期段階から高い評価をしていた)。 ●第3楽章と「子供の角笛」との関連 10番第3楽章には「プルガトリオ(煉獄)」という題名がついており、ダンテの叙事詩『神曲』からとられたタイトルである。煉獄とは、自分の罪に気付いた者が険しい山を登りながら自ら罪を浄める場のことである。人を過らせる7つの感情(高慢、嫉妬、怒り、怠惰、欲、飽食、快楽)を浄める7つの道からなっているということだ。厳しい煉獄の道を越えると地上楽園にたどり着き、そこから真の幸福がもたらされる天上界につながっていく。 Mahlerはいったん「プルガトリオ、またはインフェルノ(地獄)」と書き、「またはインフェルノ」を削除している。なお、第4楽章の冒頭に「悪魔は私と一緒に踊る狂気よ、私を捕えよ、呪われた私を、私が存在していることを忘れさせ、私の生を終わらせるように、私を打ち砕いてくれ」というMahler自身の書き込みがあることから、第4楽章が「地獄」を表わしているのではないかと見る説もあるようだ。 さて、Mahlerは歌曲集「子供の不思議な角笛」の中で「この世の生活」という曲を書いている。草稿によると、「子供の不思議な角笛」のなかに「天上の生活」というタイトルの曲を置き、「この世の生活」と対比させようという計画があったようだ。この曲は壮大に拡大されて第3交響曲の終楽章に組み込もうと計画され、さらにこれではあまりに第3交響曲が長大になることから第4交響曲の終楽章に置かれることとなる。 「この世の生活」の筋は次の通り。 飢えた子供と母親の対話。パンを欲しがる子供に対して「明日麦を刈ってくるから待っていなさい」。さらにパンを欲しがる子供に対し「明日麦を打ってくるから待っていなさい」。3度目には「明日パンを焼いてやるから待っていなさい」。そしてパンが焼けたとき、子供は死んでいた。 さて、「この世の生活」と第10番には実に深い関連がある。まず、第10番3楽章のヴィオラを中心とする間断なく続く伴奏音型は、「この世の生活」の伴奏からとられている。「この世の生活」では「粉ひき車」を表わしているおり、苦悩に満ちた現世の生活を安息に満ちた天上の生活と対比させる手段として使われている。 さらに、意外に書籍類に書かれていないのだが、子供の叫び声「パンをくれなきゃ死んじゃうよ」にあたる音型は第10番第1楽章の第1主題の跳躍と同一である(「この世の生活」で最後にこの主題が出現するところの歌詞は「その子は棺に臥せていた!」である)。 ●第3・5楽章と、「サロメ」の関係 MahlerはR.straussの楽劇「サロメ」を非常に高く評価しており、1905年の秋に宮廷歌劇場で演奏するために尽力するが、検閲にひっかかり果たせなかったという過去がある(その後1907年にウィーン初演を果たしている)。 「サロメ」は背景が少々複雑なのだが、細かいところをすっとばすとざっとこんな筋書。 サロメは古井戸に閉じ込められている予言者ヨカナーンの声に惚れてしまう。サロメはヨカナーンを古井戸から連れ出すように兵士たちに命令するが、領主から固く禁じられているので、皆後込みする。そこでサロメはかねてから自分に心を寄せていると知っているナラボートに命令。はじめは断わっていたナラボートも、ついにヨカナーンを井戸から引き出す。ヨカナーンはサロメの母ヘロディアスの不義不貞をなじるが、サロメは逆に不思議な魅力にとらわれてしまう。サロメはヨカナーンを誘惑、この様子に耐えられないナラボートは自害してしまう。サロメはナラボートの死骸を乗り越えてなおヨカナーンに迫っていく。ヨカナーンは「不倫の母の娘よ、呪いあれ」と言葉を残し、井戸に入っていく。場は変わり、サロメの父ヘロデが登場、サロメに踊りを所望する。サロメは断わり、母ヘロディアスは不吉な予感を感じ反対するが、ヘロデは「何でも望みのものを与える」とさらに強いる。サロメはその言葉を確かめ、官能的な踊りを始める(有名な「サロメの踊り」)。踊りが終わり、サロメは「銀の皿に載ったヨカナーンの生首」を所望する。それだけはならぬと驚くヘロデ、大胆な言葉に喜ぶヘロディアス。断わるヘロデにサロメはあくまでも生首を要求、ヘロデもついにあきらめ、それに応じる。血の滴るヨカナーンの首に接吻し、「今こそお前の頭は私のもの」と狂喜するサロメ。去りかけたヘロデは突然サロメの方を振り向き、兵士たちに「その女を殺せ!」と命じ、幕となる。 さて、第10番第3楽章の主題は「サロメ」の指導動機からとられている。長3度、または短3度の音程を特徴とする凸型の音型である。Mahlerはまず、4度音程など正体を露にしない方法で導入、曲が進むに連れて魔性の女「サロメ」の姿を明らかにしていく。第5楽章の冒頭で第3楽章の冒頭主題の拡大形として再出、第5楽章第1主題で展開し、第1楽章に出た不協和音再現の部分でサロメ主題を重ね合せるに至るという具合だ。伸ばされたA(ArmaのA)に重なる「サロメ」主題は、あたかもアルマの不貞に対する告発の叫びのようである。不協和音再現の後はサロメ主題は姿を消し、逆に「愛の死」の浄化された女性主題(次の項参照)にとってかわられてゆく。 ●第3楽章下降音型とMahler自身の書き込み「おお神よ!なぜ私を見捨てられたのですか!」 Mahlerは、はじめから手の内を明かす楽曲構成をしない。それは第9番冒頭の「不整脈のリズム」が、「パルジファル」の「聖堂への入場」の鐘と結びつくまで、時間をかけて徐々に「死」の暗示であることを明かしていくのに代表されるだろう。第10でも、同様の重要なテーマが存在する。4音からなる下降音型モティーフである。 この下降音型が明確に出現するのは、第3楽章の84小節目。第1楽章では第157節目と158小節目にその暗示が見られる。さて、この下降音型が盛り上がってくる第3楽章第92小節目付近に「死!変容!」、第107小節目付近に「憐れみを!!」「おお神よ!なぜ私を見捨てられたのですか!」、113小節目付近に「御心が行われますように!」というMahler自身の書き込みがある。普通に聴いているとそんな深刻な音楽とは思えないのであるが。 この下降音型は一般的に「ため息」と呼ばれることが多いようだが、ほかでもない「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」のライトモティーフそのものであることにそのヒントがある。この下降音型はこの楽章以降増殖し続け、第5楽章の最後の最後で13度の跳躍(!)を伴うに至るのだ。 この下降音型は、第4楽章、第5楽章と曲が進むにつれて頻度を増すと同時に、徐々に穏やかな性格に変容していく。それは「サロメ」的な悪魔的女性像から「聖母マリアに近い永遠の女性」としての女性像への変化にほかならない。そのことは、13度の跳躍を伴う最後の下降音型のところに「アルムシ!(アルマの愛称)」というMahler自身の書き込みがあることからも推測される。「愛の死」の動機は、「すべては死によって浄化されるのだ」というMahlerの思想が端的に表現されている重要なモティーフなのである(「アルムシ!」の直前には、「お前のために生き!お前のために死ぬ!」という書き込みがある)。 ●第4楽章最後と第5楽章の太鼓 あまりの唐突さに、初めて第10番全曲を聴いた人はおそらくびっくりしたに違いない第4楽章最後と第5楽章の消音された大太鼓。Mahlerはこの部分にまた書き込みをしている。
「お前だけが、これが何を意味するか知っている。ああ!ああ!ああ!」 言うまでもなく、アルマにあてた書き込みである。多くの解説に書いてあるのでご存じかと思うが、Mahlerが1908年2月16日に体験した出来事を指している。ニューヨークのマジェスティック・ホテルから眺めたベテラン消防夫の葬列の情景である。 「葬列は彼らのアパートの真下でいったん止まり、追悼の演説があったあと、消音された太鼓の一打を合図にふたたび動き始めた。それをみてMahlerは涙をとめどもなく流していた」 葬儀の太鼓という具体的な事実を指しているともとれなくはないが、むしろ、「アルマの不倫が事実として発覚したことによってMahlerが受けた死にも等しい衝撃」として捉えるべきなのではないか。 ●それでも絶対音楽である。 さまざまな分析を行うと、標題音楽のようにも思えてくるが、具体的な何かを描写した音楽では決してない。「私小説的絶対音楽」とでも言えばいいのだろうか、抽象的心理状態を喚起する音楽なのだ。消防士の太鼓も、ArmaのAも、Mahlerの具体的な人生の出来事は、この交響曲においてアイデアの源にしかすぎないのだと思う。つまり、人生観が端的に表現された交響曲。「すべては死によって浄化されるのだ」という思想に裏打ちされた絶対音楽なのだ。
第3部 Mahler10番第1楽章の形式分析 すでにソナタ形式を大きく逸脱しており、その形式分析については諸説出てきて当然である。ここに挙げるのは笹崎なりの分析である。
◆提示部 T.1〜39
◆展開部1 T.40〜104
◆展開部2 T.105〜140
◆再現部 T.141〜177
◆コーダ1 T.178〜193
◆コーダ2 T.194〜212
◆コーダ3 T.213〜275
◆Universal版 Berg「ピアノ・ソナタ」の音の間違い
・T 16 3拍目最後の右手のDナチュラル抜け。
第1楽章
・T45、T46 合唱の一番下と第2ピアノのリズムが不整合。編曲は第2ピアノに合わせる。 第2楽章 ・T148 第2ピアノのリズムは符点8分−16分−4分ではないか?
オーケストラスコアの音の間違い
・P 2−T 7 Gr.Cは休みでよいのだろうか。(cf.P12)
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